昭和46年04月02日 朝の御理解



 御理解 第90節
 「上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのはむつかしい。道を開くというても、匹夫の俗人から開くのじゃから、ものがむつかしゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ。たとえ一時はむつかしいことがあっても、辛抱してゆくうちには徳が受けられる。」

 「匹夫の俗人から開くのじゃから、ものがむつかしゅうて暇がいる」と。難しゅうて暇がいるという事が、おかげという事が分かりますですね。誰でも苦しい事がありますと、早くそこから逃れたい。早くそこから助けてもらいたい。願いが叶う事を願うんです。それではね本当のおかげは、受けられないという事。ですからものがむつかしい。暇がかかるという事がね実は神様の願い、私共がおかげを受けたいと願う、その願いを本当に成就させて下さろうとする神様の頂き方とでも申しましょうかね。
 神様の願いが先に成就する。その間がむつかしい。そこのところを、辛抱していくうちには、徳が受けられれると言っておられる。いわゆる、神様が願うて下さるのがそこ、例えば下から上に、水を流すというように、いわば難しい。これは普通では出来ない。やはりそこには、辛抱していくうちに徳を受けて、いうならば徳で開かせてもらう道なんだ。徳で開かせて頂けるおかげの道というもの。
 一つの願い事でも、神様が本当におかげを下さろうと。「難しゅうて暇がいる」というおかげは、どういう事かというと。徳を受けるという事ですね。例えばあの、その間の事。例えば、全然、願っても願いが成就しないというではなくて、実をいうたら、お道の信心の稽古をさせて頂いておれば、あれも神様の御都合であろう、これもおかげとういう風に、分からせて頂く、いわばおかげをね、頂かせてもらいながら、いわゆる、本当のおかげとはということですね。
 ところがお互いの信心を思うて見ますと、「難しゅうて暇がいる」という、例えばおかげを皆がよう頂いていないように思う。「難しゅうて暇がいる」という、そのおかげが神様の願いでもあり、又私共が夢にも思わなかったようなおかげである。所謂上から下へ水を流すというようなみやすいものではなくて、下から上へ水を流すと言う程しの事。ですから夢にも思わなかったようなおかげの道というものが開けて来る。この辺の所をですね私は楽しみに言わば信心すると。神様が下さろうとするおかげ。
 一時は難しい事があってもです。やはり辛抱していくうちには、徳が受けられる。一時は難しい、これはおかげは、もう受けられんのだろうかと思うような事があっても。辛抱して行くというのは、勿論ただ時間をかせぐと言った様なのではない。いわゆる信心辛抱である。辛抱しておるうちにです、改まって行くというか、磨いて行くというか、そこのところが、しっかりなされなければいけんのです。そこのところがなされないで、例えばおかげを受けてもね、いわば徳は受けられん。
 ですから匹夫の俗人から開くのじゃから、ものが「難しゅうて暇がいる」と。暇がいる、その暇が掛っておる間に、いわば稼がなければならない。本気での信心修行はして貰わなきゃならない。本気で改まる本気で磨かなければならない。そういういわゆる辛抱。本当の信心辛抱。そういうおかげを頂いて行くうちに、徳は受けられる。徳を受けるから皆さん、普通では考えられないような、おかげの道が開けて来る。本当にこの私共が一心に願わせて貰う。
 本当に難儀は難儀で痛い事は痛い、痒い事は痒いからです本当に願う。ですから神様もすぐおかげを下さりゃ、よかそそうなもんですけれどもです。そういう訳にはいかんというのじゃなくて、そこを通らせなければ分からない。そこを通らせなければ私共が徳を受けて行く事が出来ない。だから改まりもしなければ磨きもしないで頂くおかげが、是が何十年そういう事が繰り返し続いてもです。私はこりゃあの世にも持っていける、この世にも残しておけると言った様なおかげにはならん。
 それは私共の周囲を見てみるとそれが分かります。「むつかしゅうて暇がいる」というのは、徳を受ける、そのことを通して徳を受けるという事がむつかしゅうて、暇がいるのである。願っても願っても、例えば願いが成就しない時には、いよいよいわゆる本気で自分というものを、見極めさえて頂いて、やはりこれではならんという、改まるという事に、磨かせて頂くということに、焦点をおかなければいけん事になる。
 例えば、なかなか手が汚れておっても、いくら水でこう、押しこくって洗うても、落ちない事がある。けれども、なら石鹸を借りると、すっと落ちる。ここにいわば、一個の缶詰があるとする。ですからこれを食べたいと思うけれども、缶切りがないから、いわば、それを頂く事が出来ない。そういう時に、缶切りを借りますと、訳も造作もなしに缶詰を切る事が出来る、頂く事が出来る。私共がです、そういうおかげに終止しては、いわゆる神様の願いというものは成就しない。
 私共にかけられる願いは成就しない。ただそういうおかげだけで、一生が終わってしまうという信心、又は信者が多い事を私は、神様がいうなら悲しみなさるという風に思うですね。だからそういうおかげも頂きながらです、本当のおかげへ向かって進ませて頂くために、例えばこれは病気に致しましても、経済的な問題にいたしましても、人間関係の、難しい難儀に致しましてもです。
 やはり本当にここんところを頂けば、楽になるという事をです、分かっておるのですけれども、そのことに限っては、神様がいっこう聞いて下さっていないかのようにみえる。それかと言うて、今申しますように、日々そのまぁいうならば、それはまぁどうでも良いという訳でもないでしょうけれども、そういう風にいうならば、簡単な願いとでも申しましょうかね。手が汚れておるから、石鹸を借りてと言う様にですね。
 缶を缶詰を切るのに缶切りを借りて、と言った様な意味合いにおいては、はぁあっちはやっぱ、おかげだと感じる。いわゆる本当のおかげは、私はそんな問題、そんな簡単な問題じゃない。それは「難しゅうて暇がいる」ということになる。難しゅうて暇がいる間に、神様の願いが段々成就していくような、こちらがあり方にならにゃいけん。本気で徳を受けて行く。いわゆる信心辛抱が必要である。
 その信心辛抱、そこんところが出来ないから、いわゆる神様の本当の願いというものが成就しない。私共が、いわば夢にも思わなかったようなおかげが成就しない。いわゆる徳にならない。そこのところを本気で気付かせて頂くという事がです、私は信心だと思うですね。例えて申しますと、私が、お商売をさせて頂いて、まぁ商売の上の事、色んなことをお願いをする。
 お願いすれば、まぁ神様は、色々おかげだと思われるようなおかげを見せてくださって、信心の有り難さをまぁしみじみ感じる。けどもそれは、信心の有り難さではなくて、おかげの有り難さを感じるのである。そういう繰り返し繰り返しをさせて頂いておるうちにです、いわば翻然として、分からせて頂いたと、という事がです、今までの信心ではいけないという事である。
 そういうおかげだけに、目先目先のおかげにとらわれた信心では、愈々駄目だという事が分からせてもろうて、そこから本気での信心修行が、段々出来て来るようになった。そこからようやく、いわば下から上へと水を流すほどしの、いわばおかげというか、不思議なおかげ、いわば徳を受けていく、力を受けていくおかげが頂けて来たように思う。神様が信心して、どうぞおかげを受けてくれよというのは、ただその時に缶切りをかしてもらうこと、石鹸を貸してもらうといったようなおかげではない。
 いわゆる、神様の願いが成就していく、人間氏子の上に。それを神様は願うて下さる。これは、今、合楽でおかげを受けておられる、もうほとんど全部の人というても良いと思う。おかげを受けるおかげを受けるというておっても、受けておるようであって、受けておらんようであって、それでもやはり受けておるという気持ちの方が強く感じられる。今日福岡で、高橋さんのお宅の宅奉り謝恩祭があります。
 高橋さん高橋さんの信心は、まぁ十何年になりましょうか。毎日福岡から日参がある。日々、総代の上のことだけではない、人間関係のことだけではない。もう全てをお取り次ぎを願いておかげを受けていかれる。それでおかげを受けていかれるうちに、やはりおかげと感じたり感じれなかったような事が起きて来る。それでも高橋さんはいわゆるその、そのところをおかげと思うておるからこそ信心が出来ておる。
 ただ十年これからも続く事であろう。だからそれは一つも、神様の願いが成就しておるというのではない。高橋定利というその人が、本気で改まるという事に、または磨くという事に気付かせて頂いてその時間を、神様が貸されておるだけのことです。ついこの頃からね、もう不思議なくらいなんですよね、あちらの職人さん配達なんかも行かれて、ちょっとした事故が、事故というてももうなんにもないような事故であった。
 別に怪我しておるわけでもなんでもない。所が相手が悪いちょっと人種の違った人。しかもそれがこう遊び手がかった人。それでどうもないのに病院に行っておって、お金さえ持ってくりゃ自分も退院すると言った様な出方。もう何でもないのにいわば金を十万円もひょっと取られる。ほんに何日前でした。丁度去年もやっぱそうでした。所が不思議にまぁおかげの中に、やっぱあってるんだなぁと感じなければおられないのはですね、丁度その日があれは自動車の、あれ何ちいうですかね切り替えの車検。
 その直ぐ車検の切り替えの日であったという事であってはです、何時も場合でもです、いわゆる去年も場合も、やはり十万か二十万か取られなさいましたけれども、まぁ同じ人種の人達に、それはちょっとした子供の怪我であった。けどもその親がその監獄にはまっておる。監獄の中からその金を取れって言い聞かせしてくるような、そのことに同じようなケースであった。
 だからそこに高橋さん神様の御都合と思わなければおられない中に、そういう事が起っておる。あれ程熱心な信心しなさるから、それを又そう言う事があっちゃならん様にも感ずる。しかも同じ様な事でまぁだ気付かんか。是でもか是でもかと言った様なものをそこから感じる。二、三日前も平和台で野球大きな何がありよる。それにお願いをしてお届けを出されますから、所が作ったけれどもその日は雨で流れていった。
 神様ながらその今日はもう雨が降るから、もう今日は作るなという風に教えて頂きゃ、さぞ良かろうごたる。所がそういう時代もあったんです。ですからそこにですね、そういう時間を稼いで、所謂神様が稼いでおられる間に、私共が何かを気付かせて貰わなければならない事がある。その何かが私は改まる事であり、よりもっと磨いていく事である。一時は難しゅうても暇がいるという、その暇が今稼がれておる時である。
 というて例えばその石鹸を借りるというかね、缶切りを借りると言った様な意味においてはまぁある意味では、恐れ入ってしまうなぁ神様の働きは、と言う様なおかげももうじかに感じておられなければ、とても福岡から毎日日参して来る事が出来る筈がない。またあぁした御用に打ち込まれるはずもない。そこにほんならこういうおかげの程度でです、一生しまえたら、どこの誰々さんと言った様な、沢山な信者があります、その沢山の方の方と、あんまり変わりがないという事になる。
 だからそれこそ千人の中の一人とか、万人の中の一人と言う様な私はおかげを、神様が願っておられる、その願いに気付かせて頂いてです本気での改まり。信心の方向というものがはっきり、そこに置き返られるいわばおかげというかね、そういう一つの発心がなされなければです。そういう事がただ十年二十年辛抱されておるだけではです、そういう辛抱しておる間に徳が受けられるという事にはなってこない。
 おかげは受けておられる。その間に徳が受けられるという、辛抱をさせて頂かなければならないという事になる。そこでですね、私共が改まる改まると言うても、中々そう何て言うですかね、まぁ性根の中に染み込んでおるとでも申しましょうか。いわば癌のようにもうなっておるものがです、心の中にいわばへばり付いてしまっておるのですから、中々取れない。所がそこの所をですね、願いに願っていくという信心。
 是ではいけん。是ではおかげは受けられないと、気付かせて頂いておる者に対しての、願いというものがかけられる。今日私はご神前に出らせて頂いたらね、あのスルメですかね。スルメとイカと。まぁだ相中ち言う生乾きち言うような感じ。それがもうこんなにして固まっている所を頂いた。丁度何かこうあの型の中に入れたように固まっておる。それがまさしくスルメでありまだ次のよく乾いてないという感じ。
 スルメて言う事は是は、まぁ改まると言う様に教えてあるですね。こげな事は自分はもうこげな事しよったんじゃおかげにならん。もう是はいっちごするめち。こげな事だけはいっちごするめち言うごたる意味なんです。スルメのお知らせは。それがこう固まっとる。それで私は、幹三郎が病気の時の事を思ってみる。一年何ヶ月間もここの頬張れのようにあんなに腫れて、皆が大変心配して下さる。
 まぁ神ながらに、富永先生が見えて頂いて、診察をして頂いた結果、まぁ富永先生自身が、それこそ、顔色が変わるほどしの事であることが分かった。そして、診察を終わられて、行き帰りに見えられた時に、私といわばお医者さんで言うなら、首をひねりなさるような事であったけれども、私が富永先生に申しました事はです、富永先生じっくりよか時節時期ですよて手術をする。
 もうそれこそお医者の側から言うたらもう手遅れも手遅れ、ようも是までほうからかしとったもんだという位な、ような事であった。富永先生だけではない医大にもあります先生方の言われるのは皆そうであった。よくぞこげんまでなるごとほうからかして、それこそ親父の顔が見たいと言う訳でもないが、けれども私は富永先生に申しました事は、一番よか時期ですよと。愈々いわば開いて見られた所が、上からも下からもいわばそういう癌の様な物が走っておるやつが、全部ここにこうやって集まってしまった。
 丁度握り固めた様になる。そこへ一所へ集まってしまって、富永先生が後で言われるのに、親先生まぁ分かりなさらんとは、素人とは言いながら一番よか時節てんなんてん、時期だと言いよりなさるけれども、はぁまぁそうですかち言いよんなさるけれども、実際は、そげな事じゃなかった風に、親先生があぁ仰っておったが、まさしくその通りであったという事である。それを全部取り除いてしまった時には、もう丁度一つ肉の固まりの様に、洋食皿にこう盛った様な感じであったそうですね。
 そこに固まってしまっておる。だから私共が癌のように思うておる自分の心の中のですね、ようなものでも願いに願っていって、一年何ヶ月、普通から言うたら手遅れの様だけれども、神様の働きというものはもう一所で寄せて集めておって下さる様な働きがです、心の上に改まりの上にもです、出来るもんなんです。それは私達はスルメはやっぱ固まっておるといったような、お知らせを頂いてですね。
 もうとても出来んと思うておる事が、実際開いてみたらそれこそ根も根もなか様に綺麗に、取り除かせて頂けれるほどしのおかげを頂く時にです。もういうならば人間が二人いるように変わらせて頂く事になるのですよ。それが私は徳を受ける事なんです。だからそういう、これは一時は難しい事があってもとこう。辛抱していくという事は、縋るに縋り願いに願って改まるという事をです。
 願わせて頂いておりますとです、そういうもう絶好の機会。そのチャンスというものが与えられる。そこんところを取って押さえるようにして改まっていく。そのことが実を言うたら、神の願いなのである。そこが取り除かれた時に、神様が下さるおかげが上から下へ水を流すようなものではなくて、下から上へいわば水を流すような、普通では考えられないようなおかげになってくる。
 それが徳なんです。それを受ける事を神様の願いが成就するという事になる。私共の願いは、夢にも思わなかった様な願いが、そこに成就しておるという事になる。だからここの所が出来ない限りです日々十年、二十年、一生信心させて頂いておりましてもです、そういうおかげになってこない。と言うておかげは受けられんかというとそうじゃない。成程神様のおかげちゃ間違いないなぁと言う様なおかげを頂いたり。
 またはそれとは反対に、いわゆる高橋さんの上に起きておるね、日々おかげを受けておる有り難い。けども同じような事柄が、難儀な事が続いておる。いくらお金お金ね値打ちがないというても、やはり十万と固まりゃ二十万と固まりゃ大金である。そういう事をそれこそ、本当に馬鹿のような事で出さなければならないようなお気付けです。そういうお気付けを頂く時にです、私共が本気で改まる事に精進させてもらい、願わなければならん。その願いが願い続けられていく時にです必ず神様が時期を下さる。
 だから私は改まる、さぁもうというて改まったようなのはね、ただ上っ面だけの事。心から根から根がとれるほどしの事になってこない。そこんところを願っておかげ頂かせてもらった時にです初めていわゆる、一時は難しい事があっても、辛抱して行くうちに徳が受けられる。と言うおかげになってくる。ただここんところを辛抱さえしとりゃ、何時かは、徳が受けられるというような事では決してない。
 その証拠にはほんなら私共の周囲を見てですたい、沢山な信者がありますが、徳を受けておるという受けた、受けられたと言った様な人はごく少ない。それがその改まるという事に、一心に願いをかけないから。そこをいい加減にいわばごまかしておかげだけは受けておるというおかげでは、頂いたり頂かなかったり。そこに神様を感ずる事はできてもです、本当のおかげにはなってこないと言う事です。
 上から下へ水を流すなら誰でも出来る事。信心させて頂いて徳を受けておかげを受けるという事は、誰でも出来るという事ではない。それこそ匹夫の凡人から開くのだから、ものが難しゅうて暇がいる。その暇がいる間に私共が本気で自分を見極め、そこから改まらせて頂く事の願いが立てられる。その願いが聞き届けて下さる、いわば上から下からおかげ、毒なものがあるとするならば、それを集めて下さる程しの働きがある。その間がいわば神様が今直ぐ、もうという訳にはいけんという。
 そこも但し願い続けなければいけない。そこに自分ではどうにん出来なかった、言わば癌の様なおかげの受けられない元が取り除かれる。そこからおかげを受けられる時に、それはまぁ本当に上から下へ水を流すように、自然な働きの中からですおかげの受けられる。難しい事があっても、ここを信心辛抱して行くうちに徳が受けられるという、おかげが受けられるです。おかげを受けるための辛抱ではなくて、徳を受けるための辛抱がこの時期になされなければならんという事が分かりますよね。
   どうぞ。